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周辺情報

歴史と自然を感じる町

中山道の中心「木曽」

西は御嶽山系、東は中央アルプスという日本でも屈指の高さを誇る山々に囲まれた場所、木曽。

江戸時代よりも前から交通の要衝として、
そして古くから日本の神社仏閣の建材である木曽ヒノキの産地として栄えたこの町には、
今も昔も変わらない伝統と文化が息づいています。

樹齢300年を超える木曽ヒノキが育つ深い山と美しい清流が織りなす四季折々の風景、
そして江戸時代から変わらない中山道の古い街並は、
きっとあなたにこれまでに見た事の無い本当の日本を感じさせてくれるでしょう。

宿場と史跡・旧跡をたずねる。

  • 木曽街道

  • 贄川宿

    • 贄川宿
      贄川宿は、木曽路の北の入り口にあたる谷間の長閑な宿場町です。
      南の妻籠宿と共に木曽路の重要な拠点でした。
      贄川の名は古くは温泉を表す「熱川」と書かれていましたが、温泉が枯れてから麻衣廼神社の親社である諏訪神社の神事の御贄に、この地で捕らえた鮭や鱒を供進したことに由来するそうです。
      街道の面影をわずかに残す町には復元された「贄川関所」があり、国道19号沿いの山裾には樹齢1000年、 県の天然記念物であるトチの大木が空に向かって枝を広げています。
    • 桜沢の有料道路
      江戸から来て本山宿を過ぎれば木曽路の北の入口桜沢、ここに「是より南 木曽路」の碑があります。
      ここから桜沢集落へは断崖絶壁が続き、中山道は現在よりも高いところを通っていましたので、江戸時代には近くの村民が岸壁を削り、道を作り通行料を取っていたそう。
      おそらく長野県で初めての有料道路ではないでしょうか。

    町内観光スポット

    • 贄川関所・木曽考古館
      この関所は豊臣秀吉の時代には主に木曽木材を監視・調べるのが仕事で、「白木番所」と呼ばれ、関ヶ原の戦い以後は福島関所とともに「出女」も取り締まりました。
      昭和52年に村誌の古閑図など諸資料を元に現在の場所に復元され、下の階には木曽考古館を併設し、「簗場遺跡」など贄川地内の遺跡から発掘された縄文初期から中期時代の土器や石器と、平安時代の遺物が展示されています。
    • 観音寺
      観音寺は木曽路の中では珍しい真言宗のお寺で寛政3年に建立、現在では村の有形文化財のひとつとなっております。
    • 麻衣廼神社
      観音寺のすぐ上にあるのが、「あさぎぬ」という木曽の枕詞を名前にしている麻衣廼神社。
      諏訪大社の系列で7年目ごとに、御柱祭を行うために境内には4本の柱が立てられおり、毎年5月には祭礼として贄川祭りが行われ賑わいます。
    • 贄川のトチ
      観音寺から200mほど離れた平沢よりの山裾にある、一際大きな大木が「贄川のトチ」です。
      推定樹齢1000年を越え木曽路の人と歴史を静かに見守ってきました。
  • 奈良井宿

    • 奈良井宿
      奈良井宿の始まりは鎌倉時代に遡ります。
      鳥居峠の麓にありその標高は940m、木曽路でもっとも高い所に位置します。
      中山道一の難所である「鳥居峠」と伊那へ抜ける「権兵衛峠」の近くにあるため、峠越えに備えて一夜を過ごす旅人も多くいました。
      かつて「奈良井千軒」と呼ばれるほどに栄えた宿場は、明治の道路改修の際に国道から外されたおかげで、今もなお当時の風情を偲ばせ、国の重要伝統的建造物保存地区に選定されました。
      現在は町の皆さんが協力しあい、日頃から保存に努めています。
    • 蒔絵櫛
      奈良井では、うるし塗りの美しい蒔絵を施した蒔絵櫛を作っていました。
      ご降家の姫君たちがここに宿を取ったのは、この「蒔絵櫛」を求めるためだったとか。
    • 鳥居峠
      鳥居峠は海抜1197m。
      木曽川と信濃川の上流である奈良井川の分水嶺をなしており、かつてはこんな歌も詠まれました。
      「伊勢に送ろか 越後へやろか 鳥居峠の立小便」

    町内観光スポット

    • 歴史民俗資料館
      鳥居峠から下り奈良井宿の入り口にあるのが、往時の宿場町の人々の生活を偲ばせる民俗資料や、歴史的遺産が時代と共に失われず後世に伝えられるようにと、昭和48年に建てられた民俗資料館です。
      1階と2階の各階には当時の人々の生活を連想させる生活用具・祭礼具・古文書などが数多く展示されています。
    • 鎮神社
      民俗資料館のすぐ隣にあるのが鎮神社です。
      元和4年(1618年)奈良井宿に「すくみ」という疫病がはやり、これを鎮めるために千葉県(下総国)より経津主居命(フツヌシノミコト)を招き祭祀が始められたとされ、毎年8月には盛大な例祭が行われます。
      奈良井宿の鎮守とされ、元は鳥居峠にあったものが合戦による焼失の後、現在の場所に移され、伊勢湾台風の被害にあいながらも江戸初期の様式を今も残しています。
    • 櫛問屋中村邸
      奈良井の指定有形文化財として公開されている中村邸は、商屋と櫛問屋を営んだ中村利兵衛の屋敷です。
      天保8年の大火の後に立てられたこの家は、当時の代表的な屋敷の姿を今に伝えています。
      表は猿頭をあしらった出梁造りと千本格子と三枚蔀、狭い間口から潜り戸を抜けていくと細い土間が奥の庭まで続き、勝手・中ノ間・座敷があり、煤で真っ黒に染まった柱に積み重ねられた時を感じることが出来ます。
    • 上問屋史料館
      奈良井の町並みの中程にあり、表には「明治天皇行在所」の碑が建つのが代々問屋(といや)を勤めた手塚家です。
      江戸時代に幕府の役人や諸大名をはじめ、一般の旅人のために伝馬(宿継ぎ馬)と歩行役(人足)を管理するのが問屋の務めでした。
      270年の長きにわたり、問屋を務めた中で残された江戸時代の漆器や塗り櫛、宿絵図、問屋屏風などの珍しいものや、日常生活に利用された諸道具が広い母屋に展示されています。
    • 大宝寺・マリア地蔵
      町並みから少し奥まったところに臨済宗妙心寺派の大宝寺があります。
      天正10年(1582年)に、木曽氏の氏族である義高公が開山大安和尚のために建てた広伝寺が始まりで、その後、江戸時代の明暦年中に玉州禅師により中興されて大宝寺となりました。
      この庭には首の無い「マリア地蔵」があります。
      昭和7年に近くの薮から発見されたものです。
      子育て地蔵に似せて作った秘かな信仰が役人に発覚して地蔵の頭はおろか、子供や膝まで壊されてしまっていますが、よく見ると抱かれた子供が持つ蓮の花がまるで十字架のようで、木曽谷に住んでいた隠れキリシタンの歴史を物語っています。
    • 二百地蔵
      奈良井宿の北端にあるのが八幡神社。
      古くは奈良井の木曽義高の館の鬼門除けとして崇敬されていました。
      旧中山道の杉並木を過ぎると、小さなお地蔵様が並んだ開けた場所に辿りつきます。
      これが二百地蔵です。
      実際には130体ほどで地蔵よりも観音が多く、鉄道建設の際に神社南に散在していたものを集めたもので、風雪にたえたその顔はいつも穏やかに旅人を迎えてくれます。
    • 木曽の大橋
      平成3年3月に完成した「木曽の大橋」は、山口県山口村錦川に架かる「錦帯橋」をモデルにしており、木曽郡にある樹齢300年前後の木曽ヒノキの大径木を集め、1年と4ヶ月をかけて作られた奈良井の新しい名所です。
  • 薮原宿

    • 薮原宿
      お六櫛で有名薮原宿も奈良井宿と同様に、江戸時代には鳥居峠だけでなく、境峠・野麦峠を経て、飛騨高山とを結ぶ要所として往時は旅人で賑わいました。
      木材に恵まれたこの地では今でも木工製品が豊富で、お六櫛をはじめ画材なども作られ、当時の面影を僅かに残す町並みを歩けば、風にたなびくお六櫛の暖簾を見かけます。
      また、薮原を含む木祖村は遥か227㎞を経て伊勢湾に注ぎ、濃尾平野まで潤す木曽川の源流味噌川を有している源流の里としても知られています。
      緑の台地を川が流れ、大きな畑が広がり、自然豊かな景色が広がっています。

    町内観光スポット

    • お六櫛
      お六櫛はもとは妻籠宿の名産であり、江戸初期までは薮原でも奈良井・平沢同様に漆器産業が主体でした。
      しかし、お六櫛の材料としてもっとも適したミネバリ(斧折れ樺)が妻籠に少なくなり、鳥居峠より運ぶようになると、薮原の人々もなんとかこのお六櫛の製作技術を習得したいと考え、様々な手段で妻籠よりその技術を取り入れました。
      中山道を旅する人々によりお六櫛の評判が広まり、いつしか薮原の名産となりました。
    • 味噌川ダム
      木曽川源流の味噌川に平成8年に完成したのがこの味噌川ダム。
      高さ140mのロックフィルダムで、多目的ダムとしては日本最高の標高1130mに位置し、計画総貯水量は諏訪湖とほぼ同量。
      ダムから少し上がったところには柳沢尾根公園、湖畔には正沢親水公園があり、木祖村を見下ろす風景や静かな湖畔の散策におすすめです。
    • 薮原神社
      薮原の町並みから一段高い森の中に、薮原神社と極楽寺が隣り合うようにあります。
      薮原神社の創始は天武天皇9年(681年)と大変古く、薮原の産土(うぶすな)神がまつられています。
      境内には八品社という末社があり、木櫛造りの職人から信仰を集めていたそうです。
    • 極楽寺
      極楽寺は臨済宗京都妙心寺派で、かつてはアララギ派の歌人が訪れた古刹です。
    • 鳥居峠
      古くは藪原峠、奈良井峠と呼ばれていましたが、鳥居峠と呼ばれるようになったのは戦国の世。
      木曽義元が松本の小笠原氏との戦に備え峠より御嶽を遥拝、戦勝祈願したところ、見事勝利を収めて、峠に鳥居を建てたことから、鳥居峠と呼ばれるようになったと言われています。
      この峠はその昔、旅人にとっては中山道の難所のひとつであり、木曽氏にとっては戦略上の重要な防衛拠点でした。
      木曽義昌と武田勝頼の軍との合戦はよく知られており、3回にわたる合戦は当時「向かうところ敵無し」といわれた武田勢をいずれも木曽氏が敗り、その実力のほどがうかがい知れます。
      峠の頂上付近にある丸山公園には、「鳥居峠古戦場碑」が建てられています。
    • 子産みの栃
      山頂の奈良井側には栃の大木の林があり、その中に幹に大きな穴のあいた「子産みの栃」と呼ばれる巨木があります。
      その昔、子供を欲しがっていた夫婦がこの穴に捨てられていた子を見つけ大事に育て、その子は幸せになったという伝説が残っており、この栃の実を煎じて飲めば子に恵まれると言われています。
    • 御嶽遥拝所
      頂上にある鳥居をくぐったその奥に、古くからの御嶽遥拝所があります。
      このまわりには霊神碑や神像などの御嶽信仰に関する石碑や馬頭観音などがあり、神聖な空気を感じます。
      また、そのすぐ下にはかつての森林測候所跡が公園となり、その昔木曽義仲が平家討伐の途中、鳥居峠にて戦勝祈願の願書を認めた際の硯の水伝説の場所や、薮原・奈良井の愛好家によって建てられた芭蕉碑など数基が往時の趣を感じさせます。
  • 宮ノ越宿

    • 宮ノ越宿・日義村
      朝日将軍「木曽義仲」ゆかりの地として知られる宮ノ越は、原野や宮ノ越付近に宿場町当時の名残を感じます。
      木曽大工の出身地としても知られるこの町並み、ひとつひとつの家々を見て気付くのは、二階を支える「持ち送り」などの民家建築の美しさを今も伝えていることです。
      また、平坦な土地に恵まれたため、木曽路では珍しく用水も完備し、屋敷割と伝馬割の水田が模式的に配置された貴重な宿場遺産です。
    • 山吹横手
      山吹山の麓を「山吹横手」と呼びます。
      その名のとおり、春になると木曽川沿いに山吹の花を一面に咲かせ、新緑の季節の訪れを告げます。
      この山吹の花は実をつけるとの言い伝えがあり、この枝で作った箸を使うと子宝に恵まれるといわれ、姫君たちは箸を求めたということです。
    • 明星岩(かじか岩・向山)
      国道19号を走りながら原野の町並みの方に視線を向けると、山の中腹の大きな岩に目がとまります。
      この岩を明星岩と言います。
      その昔、大きなカジカが住んでいて、ある時そのカジカが駒ケ岳濃ヶ池に棲んでいた大蛇をケンカで負かし、木曽川を下って伊勢の海まで追いやったという伝説があります。
      原野の駅の裏手から徒歩で約20分ほど、畦道を通り木曽川を越えて細い山道を登れば、正面に駒ケ岳を望み木曽駒高原と日義村を一望出来ます。
      岩の上に登ることは出来ますが、足場があまり良くありませんのでご注意ください。

    町内観光スポット

    • 徳音寺
      宿場の対岸、山の麓にあるのが木曽義仲の菩提寺である「徳音寺」です。
      入口付近には安永5年と銘の入った「木曽殿菩提所徳音寺」の石標が建ち、鐘桜門をくぐると庫裏と本堂があり、左手奥には義仲の木像を納めたお堂、そして境内の奥には義仲のお墓と寄り添うように、巴御前の墓碑が建っています。
    • 義仲館
      徳音寺の手前にある武家屋敷風の建物は平成4年に会館した「義仲館」です。
      館内には日義村出身の画家が描いた義仲の一生を表した6枚の絵画、古文書の写しや絵図、生活用具や木曽氏20代にわたる資料が展示してあります。
    • 巴ヶ淵
      山吹山の真下にある木曽川のS字状の深淵が巴ヶ淵です。
      義仲の愛妾巴御前に由来し、この淵に棲む竜神が巴御前の化身となり生涯、義仲に寄り添ったという伝説が残っています。
    • 旗揚げ八幡宮
      義仲が幼少の頃に養父中原兼遠と共に京に上り、岩清水八幡宮を勧請し、この地に祀ったのが始まりとされています。
      その後、以仁王の命により平家追討の旗挙げを行ったことからこの名がつけられています。
      社殿の隣には樹齢1000年近い大きなケヤキの木があります。
    • 南宮神社
      国道19号の脇の木々に隠れてひっそりと佇む南宮神社は古代、村の鎮守として南西約1㎞の「古宮平」というところにあり、宮ノ越の地名はこの宮の越(中腹)を意味するものだと言われています。
      後の義仲築城の際に現在の場所に移され、美濃国の一の宮、南宮大社の金山彦命を観請したもので、これは幼き駒王丸と養父中原兼遠が京に登った際に、密かに源氏信仰の本拠である大社から請い受けたことによります。
      義仲の戦勝祈願の神社として、また養蚕の神、安産の神としても崇められていました。
    • 林昌寺
      幼くして父を討たれた駒王丸(義仲)の養育者であった中原兼遠の菩提寺がこの林昌寺です。
      義仲を育て、挙兵したあとに兼遠は「円光」と号して仏門に入り、この寺を建立したといわれています。
  • 福島宿

    • 福島宿・木曽福島町
      木曽町福島は中山道の宿場町の中で江戸へ六十八里、京の都へ六十七里という中間地点の宿場町であり、江戸時代に四大関所の一つ「福島関所」も置かれ、木曽路の中心として栄えました。
      当時の町並みは昭和の初めの大火によりその面影はわずかですが、上の段地区には敵の進入を防ぐための鍵の手と復元された高札場や水場が残っております。
      福島関所や山村代官屋敷などの史跡を巡りながら町を歩けば、往時の趣きを思わせるものに出会うことができます。
      四季折々の彩りと澄んだ水、空気がいつでも旅人を優しく迎えてくれます。
    • 水の郷百選のひとつ
      木曽福島は全国の「水の郷百選」に選ばれています。
      水を守り、水を活かした地域・環境づくりを推進するために、その土地固有の水をめぐる歴史を大切に守り、まちづくりに優れた成果をあげている地域を国土庁が「水の郷百選」として認定したものです。
      緑と水資源豊かな木曽福島は、ひのきをイカダにして流した頃の中乗りさんを復活させたことが選定の理由だそうです。
    • 木曾おどり
      古い歴史と伝統をもった木曽おどり、その名前が最初に記録に現れるのは今から約400年前の室町時代の終わり。
      このころすでに京都で木曽おどりが盆踊りとして流行していた記録が残っており、当時から木曽谷は民謡の宝庫として都でも名が通っていました。
      当時木曽おどりと呼ばれたのは各村々で歌われていた様々な民謡の総称であり、中山道の要所として往来のあった福島宿から、木曽路の旅人や諸国から来た沢山の山林労働者によって各地に伝えられていきました。
      その中でも格調高いものとして「木曽の中乗りさん」で知られるものが、現在の木曽踊り「正調木曽節」です。
    • 中乗さんって何?
      中乗さんには主に3つの説があります。
      ひとつは木材を川に流して運んだ頃のイカダ流しの乗り手のこと。
      もうひとつは、御嶽の行者の中で神の声を伝えるほどに修行を積んだ人(中座)のこと。
      そして最後の一説が馬の鞍説です。
      当時の木曽はヒノキを代表とする木材を木曽川の流れを利用して運搬しました。
      急流の中を木材に傷を付けずに運ぶ中乗りさんは手当もよく、その粋な姿は女性達の憧れでもありました。
    • ナンチャラホイって何?
      とても不思議な響きの言葉です。
      これは、お経の中の言葉に「ナンチャラホーエ」というものがあり、そこからきたとか。
      あるいは神の山、御嶽の神々しい姿を見て「なんとまぁ」と感嘆の声をあげたからではないかとも言われています。
      御嶽は王者の山という意味と伝えられており、「御嶽山」と下に「山」をつけて呼ばれていますが、本来は「御嶽」であり、もとは「御嶽さま」「御嶽さん」と敬って言ったのが「山」となったと言われています。
    • 大名が避けた福島宿
      大名が本陣に泊まると、福島の代官・山村氏は裃(カミ̪シモ)をつけて挨拶に伺うのが通例でした。
      ですが、尾張藩の一代官といえど、家康直々に関守を仰せつかった直参でもあった山村氏に、挨拶を受けるのは幕府の大名でも気苦労が多かったのか、1746年から10年間に宿を取った大名は福島49件、上松103件、薮原130件と福島は随分少なく、中には0件の年もあったそうです。

    町内観光スポット

    • 福島関所
      当時は木曽川の断崖の上にあり背後と対岸まで山の迫ったこの場所は、交通の要衝に最も適した場所と考えられ、箱根・新居・碓井と合わせてこの福島が「四大関所」と呼ばれ、「出女に入鉄砲」と言った女子と鉄砲の出入りを厳しく取り締まりました。
      関所跡は昭和50年の発掘調査の後に国の史跡に指定され、現在は資料館も建ち当時の門・柵などが復元されています。

      【開館時間】
      4~11月:8:00~17:30まで / 12~3月:8:30~16:30まで
      ※12月~3月の毎週火曜日と12月29日~1月3日休館

      【料金】
      大人(高校生以上):300円 / 小人(小中学生):150円
    • 高瀬家
      その昔、この周辺にはお関所番の役宅が建ち並び、高瀬家もその一つでした。
      高瀬家は「島崎藤村」の姉、園が嫁いだ家であり、小説「家」のモデルとなりました。
      昭和2年の大火の被害を受けつつも、土蔵や庭園などの昔の風情を残し、島崎藤村の資料も展示してあります。

      【開館時間】
      8:30~17:00まで

      【料金】
      大人:200円 / 小中学生:100円
    • 興禅寺
      福島には寺「西方寺 / 大通寺 / 久昌院 / 長福寺 / 興禅寺」があり、その中でも木曽三代名刹のひとつの興禅寺は、木曽を治めた山村氏の菩提寺として知られています。
      永享6年(1434年)に、木曽氏12代信道が木曽義仲追善のために建立したといわれ、境内には木曽義仲をはじめ、木曽氏と山村氏の歴代の墓があり、義仲の霊をなぐさめるために信道が毎年お盆の松明祭りと風流踊りを行ったのが木曽踊りの始まりといわれています。
      室町時代の旧表山門が国宝に指定されていましたが、惜しくも昭和2年の大火により失ってしまいました。
      現在は大火前のように復元された山門が訪れる人々を迎えます。
    • 万松庭・看雲庭
      興禅寺には2つの庭があり、昔ながらの「万松庭」が方丈裏側に、そして表には昭和38年に現代造園家の重森三玲氏によって作られた石庭「看雲庭」があります。
      この庭は枯山水の形式を取り禅宗寺院の庭を基本にしながら、木曽の雲海の美をテーマにしたもので、京都龍安寺の石庭と同じ手法を取りながらも、現代的感覚を取り入れた庭として評価されています。
    • 宝物殿
      現代芸術家の作品をはじめ、木曽を治めた山村氏が所有した調度品・墨跡等の秘蔵の宝物を展示した宝物殿は、規模も大きく見応えがあります。

      【開館時間・冬期休み】
      8:30~16:30まで

      【料金】
      大人:500円 / 小中学生:300円
    • 木曽義仲の墓
      旭将軍の名のとおり、朝日の昇る勢いで京へ上った義仲を待っていたのは、宮廷貴族の社会でした。
      義仲を育てた木曽の風土は、偽りの多い政治の駆け引きを教えてはくれなかったのです。
      京へ上ってわずか5ヶ月、将軍となってたった13日で従兄弟にあたる義経の軍に追われ、琵琶湖のほとりの栗津ヶ原で最後を迎えました。
      このお墓には、義仲に最後まで寄り添った「巴御前」に託した遺髪が埋められていると伝えられています。
    • 山村代官屋敷
      かつて木曽を治めた山村氏は、尾張藩の代官として木曽ヒノキを守り、天下の四大関所の一つ、「福島関所」を270年間に渡り山村氏だけで守り通し、幕府からも一目置かれた存在でした。
      関守としての権力も強く、お屋敷も豪壮を極めていたと伝えられています。
      隣接する福島小学校もかつては屋敷だったと言いますから、その広大さがうかがえます。
      現在はその一部の「城陽亭」が残り、築山池泉式の美しいお庭もあります。
    • 崖屋造りの家
      谷あいの町である福島は土地が少ないために、昔の人々は知恵を絞り崖地を利用して、2階建てと3階建ての建物を作りました。
      町の通りから眺めれば1階建てと2階建てに見えるのですが、木曽川側へまわってみると、特徴的な作りに気が付きます。
    • 足湯(木曽川親水公園)
      平成16年に完成しました木曽福島の新名所です。
      木曽川を眺めながらゆったりと過ごし、偶然居合わせた隣の人との会話もまた、楽しい旅の思い出となります。
    • 上の段
      町内で宿場として栄えた頃の面影を残しているのはこの上の段だけです。
      幕府により防塞施設としても作られ、敵の侵入を阻むために道を「鍵の手」に折り曲げ、急な坂道を作り、両垣に石垣を築き、いわゆる「枡形」をこの上の段に設けました。
  • 上松宿

    • 上松宿
      福島宿の手前、この上松は江戸時代初期より尾張藩の保護を受けた古くからの木曽ヒノキの集散地、その歴史は今もなお木材工業の町としてその名を馳せています。
      戦後の数回にわたる大火により古い町並みは上町にわずかに残るだけですが、木曽駒ケ岳を望むこの町には「赤沢自然休養林」「木曽の桟」「寝覚めの床」などの木曽路を代表する名勝を有し、人から人へ受け継がれ守られてきた自然美を四季折々楽しむことが出来ます。
    • 木材の集散地
      森林鉄道の発着点として、また小川上流の赤沢で知られる上松では国有林を開放し、国民の森、自然休養林として利用し、「森林浴」という言葉を生み出し、「香りの風景百選」にも選ばれています。
      チェーンソー、集材機を使ったのも日本で上松が最初でした。
    • 浦島太郎の伝説
      初めて寝覚めの床を訪れると「どうしてここに?」と思われるのが、この浦島太郎伝説が伝えられる臨川寺。
      龍宮城で月日さえも忘れて遊んでいた太郎はふと故郷に帰りたくなりました。
      すると龍王は太郎に弁才天の尊像と万宝神書、そして決して開いてはいけない玉手箱をいつでも龍宮城に戻ってこれるようにと渡しました。
      その神書には飛行の術や長寿の薬法などが書かれており、太郎は日本中、津々浦々と旅に出かけました。
      そして、たまたま立ち寄った寝覚めの床の風景の美しさに魅せられ、寝覚めの里に住み、毎日好きな釣りをして過ごしたそうです。

    町内観光スポット

    • 木曽の桟
      現在では当時の桟の姿を見ることは出来ませんが、国道19号の下には360年ほど前の石垣が残っています。
      往時の木曽路は山と木曽川の岩壁の狭間の険しい道のりで、木曽の桟も代表的な難所と知られ、歌にも歌われたほどです。
    • 寝覚の床
      大正12年に史跡名勝天然記念物に指定された県立公園です。
      木曽川の激しい流れが花崗岩の岩盤を長い年月にわたり侵食したその姿は、はるか昔から旅人の心を捉え、中山道の名所として当時の歌や文献に数多く表現されています。
      大きな岩にはそれぞれの特徴をとられた「腰掛岩 / 屏風岩 / 硯岩 / 床岩 / 釜岩 / 獅子岩 / まな板岩」の名前が付けられています。
    • 裏寝覚
      寝覚の床から少し下ると裏寝覚と呼ばれる場所です。
      岩の表情はやや穏やかになり、静かに流れる木曽川に季節の移ろいを写しこんでいます。
      木曽側のほとりの散策をお楽しみください。
    • 玉林院
      天正10年に木曽義元の次男玉林によって創建されたといわれる玉林院は、明治26年の12月に火災に遭い、本堂と庫裡は失われましたが、土蔵と明和3年(1766年)に再建された山門は火難を免れて、今も当時の姿を保っています。
      本堂は昭和33年に再建されたものですが、山門や黒松の老木と整えられた庭に往時を偲ばせるものがあります。
    • 駒ケ岳信仰と太々神楽(だいだいかぐら)
      木材で有名な上松は、木曽では最も養蚕・製糸業の盛んな場所でもありました。
      この駒ケ岳神社は天文3年(1534年)に、山頂の奥の院と麓の徳原に立てられた里宮が始まりといわれています。
      山岳の信仰としては御嶽崇拝も有名ですが、上松の駒ケ岳神社も農耕・馬の神・養蚕の神として、信濃から尾張まで信仰を集めました。
      里宮で毎年5月の例祭に奉納される「太々神楽」は、古くから氏子より定められた農家の長男に伝える一子相伝、古より伝わる静動織り交ぜた舞、天狗の舞は見る者を惹きつけます。
  • 須原宿

    • 須原宿
      国道より一段高い丘にあるのが須原宿。
      車の通りが少ないため、静かな佇まいを見ることが出来ます。
      道幅も広く、鉄砲町と言われた長い町並みと往時を偲ばせる家々、整備された用水、水場など、僅かに残っているだけですが、宿場当時は本陣、問屋、旅籠、茶屋が立ち並び、旅人で賑わった町です。
      正徳5年(1715年)の木曽川の大洪水により大きな被害を受けて現在の位置に移り、その後大火などにあいながらも現在に至っています。

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    • 須原宿の「花漬」
      八重桜の花を特別な製法により塩漬けしたのが、須原名物「花漬」です。
      江戸時代の末から売り出されたもので、中山道の旅人から喜ばれ、心を和ませました。
      この花漬は明治の文豪「幸田露伴」が、木曽路を旅して出会った花漬売りの少女を元に書いた「風流仏」により、一躍有名になりました。
      またこの作品に感銘をうけた「正岡子規」も木曽路の旅に出かけました。

      「名物なればと強いられて花漬二箱を買う、あまりに美しさに明日の山路に肩の痛さの増すことを忘れたるもおぞまし 子規」
    • 定勝寺
      臨済宗妙心寺派、木曽氏11代「親豊」が先祖菩提のために開山しましたが、文安5年に木曽川洪水によって流失し、その後、文禄4年に再び洪水の被害をうけました。
      しかし、山門・本堂・庫裡は建立時のまま残されており、桃山時代の豪壮なつくりと、近世初期の禅宗寺院の規模を示す建造物として大変貴重なものであり、国の重要文化財に指定されています。
    • 岩井観音
      大島の集落にひっそりと佇むのが、京都清水寺と同じ懸崖作りの「岩出観音堂」です。
      ここは馬頭観音であり、馬にまつわる逸話も多く、日義村の「岩華観音」と開田村「丸山観音」が三大馬頭観音として、多くの人が訪れました。
      また、安藤広重・池田栄泉合作の「木曽街道六十九次・伊奈川橋遠景」の中にも、薄墨で描かれています。
  • 野尻宿

    • 野尻宿
      三留野宿から野尻宿までは、かつて木曽路の最難所といわれた道、蛇抜け(今で言う鉄砲水)により多くの人が犠牲になったと伝えられており、それを回避するために与川道という迂回路もありました。
      幾度かの大火により宿場としての名残はわずかですが、「野尻宿の七曲り」といわれた細く曲がりくねった道は木曽路では奈良井に次いで長く、ゆっくりと歩けばところどころに当時の面影を感じることが出来ます。

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    • 妙覚寺
      野尻の東、小高い丘に静かに佇むのが臨済宗妙心寺派の妙覚寺です。
      享保年間に建てられた本堂・観音堂は今もその姿を留めています。
      庭にある天保3年に作られたと言われている石仏は、野尻川向から昭和41年に今の場所に安置したもので一見すると千手観音のようですが、良くみれば左手に十字架のようなものを掲げていることから、「マリア観音」と呼ばれていています。
  • 三留野宿

    • 三留野宿・南木曽町
      往時は妻籠と同様、交通の要衝として栄えたこの宿場は、明治の大火により往時の姿は僅かに残すのみですが、古くからの渓谷美と桃介橋、読書発電所など明治、大正の日本の近代化の遺産を遺しています。
      また、木曽谷で始めてお酒を造ったのも三留野の和合の集落で、「和合酒」と呼ばれ評判になりました。

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    • 等覚寺
      南木曽から三留野宿へ向かう途中、山側へ中山道を少し外れて行くと立派な山門を構えた等覚寺があります。
      円空仏は南木曽町に六体保存されていますが、その内の三体「韋駄天像・天神像・弁財天十五童子像」がここにはあります。
      円空は生涯で十二万体の仏像を作ることを祈願して全国を行脚しましたが、弁財天は享保3年(1686年)の8月12日に作られたことが記録として残っており、この頃円空が南木曽に留まり造像に励んだことがうかがえます。
    • 水路橋
      国道19号線から柿其渓谷への道中に位置するこの存在感ある橋は、大正12年に建造された読書発電所に水を送るための水路橋です。
      現存する戦前の水路橋の中では最大規模のもので、国の近代化遺産に指定され重要文化財となっています。
    • 桃介橋
      南木曽町の木曽川に架かる大きな木造の橋が桃介橋(別名・桃之橋)です。
      南木曽町のシンボルとなっているこの橋は大正11年に架設、全長247mという現存する最大規模の木製補剛吊橋です。
      大同電力(株)の創業者である福沢桃介によって、読書発電所の建設の際に資材搬入路として作られたこの橋は、役目を終えたあとの昭和25年より、村道として木曽川両岸の地域の人々に利用されてきました。
    • 福沢桃介記念館
      大正8年に建てられたこの別荘は「一河川一会社主義」を掲げて、木曽川の電力開発に心血を注いだ福沢桃介が、読書や大井の発電所の建設現場へ足を運ぶ木曽での拠点となりました。
      桃介と愛人「貞奴」は、大井川発電所が完成するまで二人で度々滞在し、時には政財界の実力者や外国人を招き、華やかなパーティーを開きました。
      当時は渡り廊下で隣の2号社宅と繋がり、まわりには2つの池もありました。
    • 山の歴史館
      福沢桃介記念館の隣にある歴史館は、明治33年2月7日に御料局名古屋支庁妻籠出張所庁舎として、妻籠宿本陣跡地に建てられたものです。
      昭和8年まで使用された後、個人に買い取られて移築され、昭和61年まで住宅として使用されていましたが、国道交差点改良工事のために立ち退きを余儀なくされたこの建物は、町に寄贈され解体保管されていました。
      その後、桃介橋と同じく天白公園整備事業の一環として、現在の位置に再現されて木曽路の山の歴史を今に伝えています。
    • 天白公園
      大正ロマンを偲ぶ「桃介記念公園」の構想により、桃介記念館や桃介橋と共に整備されたのが、ミツバツツジ祭りで有名な天白公園です。
      ツツジの見頃は4月中旬。
      町の天然記念物に指定されたこの公園には、6種類のミツバツツジが群生しており、穏やかな春の日差しの中、紫色のツツジの花々に包まれた散策を楽しむことが出来ます。
  • 妻籠宿

    • 妻籠宿・大妻籠
      峠道も終わり、大妻籠を過ぎていけば木曽路の代表的な宿場として知られる妻籠です。
      木曽路の中でもとりわけ往時の面影を色濃く残している妻籠宿が、宿場町として徳川家康から指定を受けたのは慶長六年(1601年)ですが、それ以前より中山道と飯田街道への重要な拠点として時を重ねてきました。

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    • 大妻籠
      馬籠から妻籠へ続く峠道が終わると大妻籠の部落です。
      現在でも見事なうだつの家が残り、丘の上に続く道をあがれば、県指定の有形文化財「藤原家住宅」があります。
    • 庚申塚
      峠から下ってくると、道路脇にまるで古墳のようなこんもりとした小山を見ることが出来ます。
      上まで登っていくと庚申さまが祀ってあります。
      これは平安時代に日本にわたり、江戸期に盛んだった民間信仰が街道を通じて木曽へ伝わったもので、当時の人々の生活との結びつきを今に伝えています。
    • 藤原家住宅
      大妻籠の民家が連なる道から少し外れて丘の上まで行くと、県の重要文化財に指定されている古い民家を見学出来ます。
      部分的に新材や改造もみられますが、間取り・構造・仕上げの様子から17世紀頃のものとみられ、県内の民家の中でも最も古い部類に入ります。
    • 石柱道標
      大妻籠を過ぎて橋場まで来ました。
      ここは中山道と飯田街道の分岐点になり、「追分」とも呼ばれて栄えた場所です。
      車道から少しはずれた民家の前に3mほどの大きな石柱があり、「中仙道」「飯田道」と大きな字が刻まれています。
      これは明治14年に飯田・江州・地元の商人によって建てられたもので、道標としては稀に見る大きなものです。
    • 寺下の町並み
      いよいよ往時の面影残る妻籠の町並みです。
      馬籠方面から入って少し行けば、町並み保存事業が最初に行われた寺下地区です。
      妻籠宿は下町・中町・上町と分けられており、その町並みには当時の旅籠そのままの静かな佇まい、出梁造りや堅繁格子の家々が並んでいます。
      中には見事なうだつ(卯建)を持つ民家もあります。
      このうだつは、京都の町屋の建築の影響を受けたもので、防火壁の役割を果たしていました。
      しかし、うだつを作るのは大変お金がかかり、貧しい人々には作ることが出来ず、「うだつが上がらない」という諺まで生み出しました。
      季節ごとに彩られる宿場を沢山の人が楽しまれています。
    • 上嵯峨屋
      寺下の町並みにあるのが、18世紀初めに木賃宿として使われていた上嵯峨屋です。
      昭和44年に古材を出来る限り残して解体・復元され、当時の庶民的な旅籠が再現されています。
    • 光徳寺
      妻籠の町並みの一段高いところに城のように石垣を積み上げ、白壁を巡らせた気品ある光徳寺があります。
      このお寺は天正11年(1583年)に、下伊那郡の開善寺の性天和尚が開基したものといわれており、明治初期に遂応和尚により考案された「車つき駕籠(人力車の祖形)」も保存されています。
    • 下嵯峨屋
      元は三軒長屋だったものの一部を昭和43年に解体・復元したもので、妻籠宿の庶民の代表的な形式を留めていますが、柱にヒノキを使っているところは民家としては珍しいことです。
    • 妻籠宿本陣
      平成7年、島崎家所蔵の絵図をもとに復元されたのが、この「妻籠宿本陣」です。
      木曽氏没落後に本陣を任命された島崎家は、藤村の母の生家で、明治までその任を勤めました。
      本陣とされた邸宅は間口20m、奥行32mの規模であったといわれ、後にも先にも妻籠にこれほど大きな屋敷はなかったようです。
    • 脇本陣奥谷
      この脇本陣奥谷は島崎氏と共に木曽氏の家臣であった林氏の邸宅です。
      脇本陣と問屋を勤め、家業として造り酒屋も営んでいました。
      建物は明治10年5月に建てられ、2003年に国の重要文化財に指定されたこの家は、当時の林氏の財力を示すようにヒノキがふんだんに使われた堂々たる造りで、見飽きることがないほど立派なものです。
      また、裏手の土蔵には林氏所蔵の貴重な品々が展示されています。
    • 歴史資料館
      本陣・脇本陣に隣接して建てられているのが「歴史資料館」です。
      ここでは木曽路と南木曽の歴史、過去から未来へと続く町並み保存運動などが、資料・模型・映像を通じて分かりやすく展示されています。
    • 高札場
      復元された今でいう「官報掲示板」です。
      お上の権威を示すように高々と掲げられた高札(こうさつ)が人目を引きます。
      かつては役所からの禁制や法令などを庶民に知らしめるために各地に増え、明治の初めまで用いられました。
      時には「隠れキリシタン捜索」のおふれも出されました。
    • 熊谷家住宅
      19世紀初めのこの建物は、当時は長屋として使われていました。
      その後、左右の建物が取り壊され、残ったものが一軒の家として使われました。
      建築学上珍しいもので、昭和48年に町により解体復元されました。
    • 鯉岩
      ひときわ目を引くこの大きな岩が「鯉岩」。
      1805年に発刊された「木曽路名所絵図」には、中山道三名石として天に向かって泳ぐ鯉が描かれていますが、明治24年の濃尾大地震によって頭の部分が落ちてしまい、現在の形となりました。
  • 馬籠宿

    • 馬籠宿・馬籠峠
      中津川から落合に入り、往時の石畳の残る十曲峠(落合宿)を越えれば、そこが木曽路の南端、坂道と石畳、そして島崎藤村ゆかりの地として知られる馬籠宿です。
      木曽路の入り口にあたる新茶屋を通り、「是より北 木曽路」の碑を過ぎて当時の中山道を偲ばせる細い道を恵那山を眺めながら行けば、鍵の手に始まる馬籠宿です。
      馬籠の名の由来は車も何も無い当時、山の中腹にあるこの地から麓の町へ行く手段は徒歩以外には馬か籠(かご)しかありませんでした。
      いつの日も生活を支えていたのは、この馬と籠であったことからやがて馬籠と呼ぶようになったそうです。

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    • 落合宿の石畳
      馬籠の入り口にあたる新茶屋のすぐ下には、岐阜県の史跡に指定されている石畳が木立の合間を縫い、差し込む木漏れ日が苔むした往時の中山道を優しく照らしています。
      長い間木の葉と土に埋もれていたこの道は、当時難所と言われた十曲峠のぬかるんだ道を整備するために大きく砕いた石を不規則に敷き詰めたもので、人々の苦労の末に作られた道です。
    • 島崎藤村 松尾芭蕉の句碑
      新茶屋の入り口には、島崎藤村による「是より北 木曽路 藤村老人」の碑が旅人を迎えます。
      また、そのすぐ隣には松尾芭蕉の「送られつ 送りつ 果ては 木曽の穐(あき)」の碑が並び、俳人に愛された木曽路を感じます。
      馬籠宿にある清水屋資料館では「是より北…」の碑の原版となった藤村筆の掛け軸を実際に見ることが出来ます。
    • 正岡子規句碑
      藤村と芭蕉の碑を後にして少し行くと、美濃路を見下ろすように空の開けた場所があります。
      ここには正岡子規の「桑の実の 木曽路出づれば 穂麦かな」の句碑がたっています。
      遠く美濃路を眺めながら一休み。
      晴れた日には笠置山に沈む夕日がとても綺麗で、長野県のサンセットポイント100選に選ばれています。
    • 島崎正樹の記念碑
      荒町に入ると諏訪神社があり、その入り口には小説「夜明け前」に青山半蔵として登場する藤村の父親・島崎正樹の記念碑があります。
      島崎家の先祖や正樹の経歴、人柄などが刻まれています。
    • 清水屋資料館
      先祖は信州伊那高遠藩の藩士である清水屋(原家)は、享保19年(1734年)に馬籠に移り島崎家との親交を深めつつ、代々組頭・宿役人・郡会議員などを勤め、村長を勤めた8代目の原一平は藤村の「嵐」に「森さん」として登場します。
      くぐり戸を抜け、煤で黒くなった歴史感じる囲炉裏のある部屋を眺め2階に上がると、藤村の書簡や掛け軸をはじめ、漆器や陶磁器などの美術品、馬籠の人々の民族史を伺い知る遺品が展示されています。
    • 槌馬屋資料館
      みやげ屋が軒を連ねる一角にあるのが槌馬屋資料館です。
      ここは馬籠宿の隣、湯船沢村の庄屋を勤めた家で、島崎家とも縁があり「夜明け前」の背景を知る豊富な資料や、この地の民族資料が展示されています。
      また藤村の初恋の人と言われる「おゆふ様」や「島崎正樹」の写真も見ることが出来ます。
    • 永昌寺
      宿場の町並みから少し道をはずれて行くと、島崎家の菩提寺としてその名を知られている永昌寺が、杉の木立から人々の生活を見守るかのように佇んでいます。
      永禄元年(1558年)に木曽福島の長福寺住職七世沢堂智仁勧請開山として建立されたと寺伝にあり、当時から島崎家の祖先との関係が深く、十世桃林智仙は「夜明け前」の「松雲」のモデルとなり「万福寺」としても登場します。
      観音堂には平安末期作、檜の一本造り「木彫阿弥陀如来坐像」。
      円空作の聖観音像もあり、季節によって彩られる裏庭はとても綺麗です。
    • 藤村記念館
      藤村記念館は記念堂、記念文庫、案内所、隠居所の総称です。
      この場所は島崎藤村の生家であり、馬籠宿の本陣として宿場の中心地となっていました。
      しかし明治28年の大火により焼失、隠居所を残すのみとなってしまいました。
      隠居所は藤村の祖母の家であり、幼い藤村は時々泊まりに来たりして、勉学の場として過ごしました。
    • 馬籠脇本陣資料館
      脇本陣資料館は昭和39年に開館されたもので、「夜明け前」に登場する枡田屋こと、脇本陣蜂谷家でした。
      建物は本陣同様明治28年の大火で消失してしまいましたが、古文書などの宿場の歴史資料として貴重なものは火難を逃れました。
      大火以前の記録に基づいて再現された上段の間、往時を偲ばせる脇本陣の見取り図、約百年間の馬籠の出来事が蜂谷家四代に渡って書き継がれた覚書(日記)は、藤村が「夜明け前」の執筆にあたり重要な資料となりました。
      また、建物の裏には幾度の大火も乗り越えた「玄武石垣」が今もなおその姿を留めています。
    • 高札場
      長い坂道の町並みを登っていくと、馬籠宿の東の入り口である「陣場」になります。
      ここはかつて、徳川方が城を攻める際に陣を敷いた場所でした。
      そのすぐ上に復元された高札場があります。
    • 一石栃の番所跡・馬籠峠(白木改番所)
      脇本陣資料館は昭和39年に開館されたもので、「夜明け前」に登場する枡田屋こと、脇本陣蜂谷家でした。
      建物は本陣同様明治28年の大火で消失してしまいましたが、古文書などの宿場の歴史資料として貴重なものは火難を逃れました。
      大火以前の記録に基づいて再現された上段の間、往時を偲ばせる脇本陣の見取り図、約百年間の馬籠の出来事が蜂谷家四代に渡って書き継がれた覚書(日記)は、藤村が「夜明け前」の執筆にあたり重要な資料となりました。
      また、建物の裏には幾度の大火も乗り越えた「玄武石垣」が今もなおその姿を留めています。
    • 大崖砂防公園・馬籠峠
      男滝・女滝から少し下った道路沿いに、林の中へ通じる細い道が続いています。
      車で3分ほど進むと、木立の中に少し開けた砂防公園を見つけることが出来ます。
      このあたりは昔から土砂崩れが多く、麓の人々は自然の力にただ手をこまねいているだけでした。
      明治に入り、外国の技術援助を受けながら、日本各地の近代的な治山・治水の土木工事が始まり、明治11年(1878年)にオランダ人技師のデ・レーケが視察した際、この地の荒れ様に驚き、早速政府に工事の必要性を進言しました。
      この公園にある大きな石積みによって出来たえん堤は、昭和57年(1982年)に2mの土の中から原形を留めたまま発見されました。